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第37話 鏡の中の二〇三号室

作者: なつめ
last update 公開日: 2026-08-27 00:11:31

 澪の布団に座った返し雛は、それから一度も動かなかった。

 朔のカメラには台所の透明ケースへ収められた姿が映り続けているのに、現実では赤い着物の人形が枕を背にして両手を膝へ置いている。

 カメラを別角度から向けても結果は変わらず、液晶の中では空のはずのケースに人形があり、布団には何も映らなかった。

 奈々香のスマートフォンだけはさらに違い、布団の上へ制服姿の少女を映したまま、返し雛そのものを一度も捉えなかった。

「返す場所は、ここじゃない」

 澪は、布団の脇に落ちていた紙をもう一度読んだ。

 澄花の筆跡に見える一行は、それ以上の手掛かりを与えない。

 二〇三号室へ来いと指示され、人形までここへ現れたのに、部屋そのものが目的地ではないのなら、残るのは壁の奥か床下、あるいは図面に存在しない空間だった。

 返し雛へ触れることは避け、六人は二〇三号室を改めて調べ直すことにした。

 蓮司は建物図面と実測値を照合し、悠斗は管理会社から送られてきた古い改修記録を追い、美月は過去の失踪者が残した相談記録を一件ずつ見直した。

 朔は押し入れの空洞と新しい監視設備の接続先を調べながら、澪へ単独で動かないよう何度も念を押した。

 昨夜、枕元まで裸足の足跡が来ていたことを考えれば当然の注意なのに、その言葉を素直に安心へ変えられない自分が澪には苦しかった。

 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。

 胸元の手帳に隠した澄花の言葉が、カメラと現実で異なる返し雛を見るたび鮮明になる。

 朔自身が映像を偽っているのか、それとも澄花が別の意味を伝えようとしていたのか、まだ判断できない。

 だから澪は人形から視線を外し、二〇三号室の中で、まだ詳しく調べていない場所を探した。

 浴室は玄関脇の細い通路の奥にあった。

 古いユニット式ではなく、後から改装されたらしい小さな洗い場と深い浴槽があり、隣に幅の狭い洗面台が設けられている。

 蛇口の金属には白い水垢がこびりつき、照明をつけても薄暗い。

 洗面台の上にある長方形の鏡は全面が曇り、端の銀引きが黒く腐食していた。

「ここも壁が厚い」

 蓮司が計測器を当てた。

 洗面所と隣室を隔てるだけにしては二十センチ近い誤差があり、押し入れ側と同じく壁内に空間がある可能性が高い。

 悠斗は改修図面を開いたが、浴室裏には給排水管用の空間しか記載されておらず、人が入れる点検口は存在しないことになっていた。

 奈々香が冷たい水を出し、顔へ何度か浴びせた。

 昨夜からまともに眠れておらず、目の下には青い影が残っている。

 左耳の異常な出血は再発していないものの、鏡へ映る自分を見るのを嫌がり、洗顔中もほとんど目を開けなかった。

 美月が隣で濡れたガーゼを交換しようと準備していると、奈々香の手が急に止まった。

「……澪」

 声の温度が変わった。

 澪は洗面所の入口から一歩近づき、美月も奈々香の横顔を見る。

 鏡の中には、濡れた顔で洗面台へ両手をつく奈々香が映っていた。

「どうしたの?」

「二人、どこにいる?」

「後ろ」

 澪は奈々香のすぐ背後に立ち、美月は右隣にいた。

 奈々香はゆっくり振り返り、二人がいることを確かめる。

 そのまま鏡へ顔を戻した瞬間、喉から小さな音が漏れた。

 鏡の中にいるのは、奈々香一人だけだった。

 現実では澪が肩越しに立ち、美月も手を伸ばせば触れられる位置にいる。

 それなのに鏡面には、古い洗面所と奈々香の身体しか映っていない。

 澪は自分の手を鏡の前へ出したが、鏡の中には何も現れず、奈々香だけが目を見開いてこちらを見ているように映っていた。

「朔、来て」

 美月の呼び声に、隣室から足音が近づいた。

 朔、悠斗、蓮司が洗面所へ入ると、鏡の中の空間はさらに不自然になった。

 現実には六人が狭い場所へ集まっているのに、鏡には奈々香しかいない。

 背後の浴室扉も、澪たちの身体に隠れることなく完全な形で映っていた。

「映像だ」

 朔は鏡へ近づかず、小型カメラを構えた。

 悠斗が「またかよ」と低く吐き捨て、洗面台の下と天井を確認する。

 七刻女学校の舞踊室や音楽室で使われていた投影装置と同じなら、奈々香の姿だけを別映像へ重ね、周囲の人間を消すことも技術的には可能だった。

 しかし奈々香は、鏡から目を離せなかった。

「押し入れ……」

 彼女が呟く。

 鏡の中では、洗面所の背後にあるはずの壁が存在しなかった。

 代わりに二〇三号室の和室までが一続きに映り、その奥に押し入れが見えている。

 現実の鏡が反射できる角度ではない。

 奈々香のためだけに、部屋全体を別の位置から撮影した映像が流れていた。

 鏡の中の押し入れが、ゆっくり開いた。

「いや……」

 奈々香が一歩退いた。

 現実の和室を振り返っても、押し入れは開いたまま昼間と変わらず、返し雛は澪の布団に座っている。

 だが鏡の中では、閉じていた襖が少しずつ左右へ分かれ、その暗闇から裸足の女が一人出てきた。

 長い髪が顔へ垂れ、白い寝間着のような服が膝まで濡れている。

 足首は異様に細く、畳へ一歩踏み出すたび黒い水が落ちた。

 女は奈々香の背後へ向かって歩くが、現実の和室には誰もいない。

 奈々香が振り返って空の部屋を確認し、再び鏡を見ると、女はもう洗面所の入口まで来ていた。

「止めて……来ないで」

 奈々香の呼吸が乱れる。

 鏡の中の女は俯いたまま奈々香の背後へ立ち、濡れた髪の先を彼女の肩へ垂らした。

 現実には触れるものなど何もないはずなのに、奈々香は右肩を押さえて身体を震わせた。

「離れて!」

 美月が奈々香を鏡から引き剥がした。

 奈々香は悲鳴を上げ、振り向きざまに鏡へ掌をぶつける。

 古い鏡面へ一本の亀裂が走り、さらに端を押した拍子に硝子が大きく割れた。

 悠斗が咄嗟に奈々香を後ろへ引き、美月が手の傷を確認する。

 掌には浅い擦り傷しかなく、出血もほとんどなかった。

 朔は割れた鏡の前へしゃがみ、剥がれた部分の奥へ懐中電灯を差し込んだ。

「やっぱりある」

 鏡の背後には、本来必要のない薄い液晶板が仕込まれていた。

 そのさらに奥へ小型カメラと投影装置、距離を測るセンサーが並び、洗面台の前に立った人物へだけ加工映像を重ねられる構造になっている。

 七刻女学校の舞踊室にあったものより小型化されているが、原理はほとんど同じだった。

「またこれかよ」

 悠斗は床へ落ちた硝子を睨みながら言った。

「鏡だの女だの、全部こうやって作ってたのか」

「全部とは限らない」

 美月がすぐに返す。

「奈々香が見た女のデータが入ってるか確認してから」

 朔は記録媒体を外し、端末へ接続した。

 保存されているのは、空の二〇三号室、押し入れが開く映像、洗面所に立つ人物の輪郭を抜き出すための処理データだった。

 奈々香の姿を残し、周囲の人間だけを消す仕掛けは説明できる。

 押し入れが閉じた状態から開く映像も用意されていた。

 だが、裸足の女の映像はない。

 長い髪。

 濡れた白い服。

 奈々香の背後へ立つ人物。

 該当するファイルは、一件も存在しなかった。

「外部から送信した可能性は?」

 蓮司が訊く。

「通信履歴は残ってない」

 朔は配線を確認し、ネットワークへつながる機能自体が切られていると説明した。

 この装置に用意された映像だけなら、奈々香一人を鏡へ残し、押し入れを開かせるところまでしかできない。

 女の姿だけが、どこから入ったのか分からなかった。

 奈々香は洗面所の隅で美月に手を見てもらいながら、何度も首を振っていた。

「私、本当に見た。顔は見えなかったけど、女がいた」

「疑ってない」

 澪が言う。

「私も鏡の中で動いてるのを見た」

 澪自身にも、押し入れから出てきた女は見えていた。

 奈々香だけが見た幻覚ではない。

 しかも、今度は七刻女学校のように一人へ骨伝導装置をつけた形跡もなく、六人のうち少なくとも澪、美月、悠斗も同じ映像を確認していた。

「固定カメラの録画を見る」

 朔が言った。

 洗面所へ入る直前から、二〇三号室には複数のカメラが動いている。

 押し入れ側、台所側、玄関側。

 さらに朔自身の胸元のカメラもある。

 鏡面の加工とは別に、六人がどの位置にいたかは残っているはずだった。

 全員で和室へ戻り、端末へ映像を並べた。

 奈々香が顔を洗う。

 澪と美月が後ろに立つ。

 異変に気づき、朔たち三人が洗面所へ集まる。

 その後、奈々香が鏡を叩き、美月と悠斗が引き離すところまで、現実で起きた通りに記録されていた。

「女はいない」

 悠斗が画面を見る。

「鏡の前にも、和室にも」

 澪は押し入れ側のカメラへ目を移した。

 そこで呼吸が止まった。

「待って」

 画面の右端。

 浴室の入口。

 女が立っている。

 鏡に見えた女とは違い、今度は顔が見えた。

 薄い頬。

 肩まで落ちた濡れた髪。

 青白い皮膚。

 古い服。

 女は六人のすぐ後ろに立ち、誰にも触れず、ただこちらを見ていた。

「こんなの、いなかった」

 美月が呟く。

「絶対に」

 澪も覚えている。

 奈々香を鏡から離し、全員が洗面所に集まったとき、浴室入口には誰もいなかった。

 狭い場所だったから、人間が立っていれば気づかないはずがない。

 蓮司は女の顔を拡大し、鞄から過去の入居者資料を取り出した。

「止めろ。その顔」

 写真を一枚ずつ比較する。

 七人とされていた元入居者。

 そのうち、本当に現在も行方が分からない四人。

 蓮司の指が、一番古い写真で止まった。

「一致する」

「誰?」

 澪が訊く。

「十三年前に消えた女性」

 常世荘二〇三号室から、最初に正式な行方不明者として扱われた入居者だった。

 失踪時二十六歳。

 会社員。

 財布と携帯電話を部屋へ残し、靴も玄関にあった。

 警察の捜索でも所在は分からず、その後一度も生活の痕跡が確認されていない。

「十三年前……」

 奈々香が青ざめる。

「じゃあ、今ここにいたら何歳なの」

「三十九歳」

 蓮司は画面から目を離さない。

 映っている女は、失踪時の写真とほとんど年齢が変わっていなかった。

 朔が映像の情報を確認する。

「このカメラには鏡の投影装置から映像を受ける機能はない」

「じゃあ、本当に部屋にいた?」

 悠斗が訊く。

「いたなら、俺たちが見落としたことになる」

「六人全員が?」

 美月の声は冷たかった。

 画面の女が動いた。

 録画を再生しているだけなのに、澪はその瞬間、女と目が合ったように感じた。

 女は正面のカメラを見ている。

 唇は閉じたまま、ゆっくり右腕を持ち上げる。

 指先が伸びる。

 押し入れを指していた。

 澪たちは同時に、現実の押し入れへ目を向けた。

 奥板は外されている。

 配管。

 断熱材。

 途中を塞ぐコンクリート。

 昼間と何も変わらない。

 だが、録画の中の女は指を下ろさなかった。

 押し入れの奥ではない。

 もう少し低い位置。

 床に近い。

「下?」

 澪が呟いた。

 蓮司が映像を止め、指先の延長線を確認する。

 女が示しているのは、押し入れの下段だった。

 その瞬間。

 畳の下から、硬いものを三回叩く音がした。

 コン。

 コン。

 コン。

 六人が押し入れを見る。

 続いて床の下で、女が小さく笑った。

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